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ファミリーヒストリー デヴィ夫人の家系図は?家族先祖のルーツは?

      2018/09/28

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こんにちは。

うらりんです。

「ファミリーヒストリー デヴィ夫人」(2018年9月17日放送)より、まとめました。

デヴィ夫人のことは、いまさらな感じもしますが、ファミリーヒストリーでは、かなり掘り下げた話が出てくると思います。

六本木ヒルズのある隣、デヴィ夫人は、その近くの借家で生まれます。

ファミリーヒストリー デヴィ夫人の家系図は?

ファミリーヒストリー デヴィ夫人の先祖ルーツは?父方

15歳で父を亡くしたので、父のルーツは、知りません。

デヴィ夫人いわく「茨城だったと思うんですけど」

それくらいの認識です。

父、兵七の戸籍によると、根本家はもともと、茨城県ひたちなか市平磯で暮らしていました。

今も、本家を守る、根本知明さん、志津雄さん。

デヴィ夫人とは、面識がありません。

平磯町郷土史に、江戸時代の終わり、デヴィ夫人の曾祖父兵吉は、カツオ漁を取り仕切っていた惣代でした。

船持ちということで、カツオ漁とか、マグロ漁とか、さんまやいわしなどを捕っていました。

根本家は、江戸時代の初めには、平磯で漁師をしていました。

この根本家の他にも、ここ平磯には、根本という家が150件あり、先祖が同じではないかと言われています。

かつて、日立の国を治めていた戦国大名の佐竹氏に、室町時代から根本氏は武士として活躍していました。

その根本氏の領地だったのが、平磯の北、現在の常陸太田市です。

かつて、ここには根本城があり、隣接する所には伏見稲荷神社があります。

地元の人が建てた碑には「根本鎮座」と表記されています。

ところが1600年、関ヶ原の戦いで、状況が一変します。

佐竹家は、中立の立場をとっていました。

それが、家康の怒りをかい、江戸時代になると出羽の国に国変えされ、石高も減らされます。

その結果、多くの家臣が武士を辞めなくてはなりませんでした。

根本一族は、海沿いの平磯に移り住み、漁師となります。

しかし明治43年(1910年)転機が訪れました。

平磯沖で、嵐による海岸事故がおきます。

死者行方不明者、500人を超えました。

この時、漁に出ていたデヴィ夫人の祖父、兵三郎は、命は助かりましたが、船は沈んでしまいました。

これをきっかけに、根本家は漁師を辞めます。

そして始めたがの、かつお節や、塩辛を作る海産物店です。

当時は、繁盛して、使用人もたくさんいました。

60年ほど前まで営業していた店先には、今も屋号が残っています。

「入る」の下に「・」を打って「いりぼし=煮て干した魚」

という意味です。

そんな根本家の次男として生まれたのが、デヴィ夫人の父の兵七です。

地元の平磯尋常小学校を卒業すると、家業は継がず、船大工になります。

平磯沖では、シケで船が壊れたり、沈むことが多いので、船大工は重宝されていました。

大正10年、兵七は、地元出身のはると結婚します。

しかし2年後、関東大震災がおきると、平磯にも影響がおきます。

不景気になり、魚の価格が急落しました。

廃業する漁師が相次ぎ、船大工だった兵七の仕事も減ってしまいます。

当時、長男が生まれたばかり。

家族を支えるため、仕事を探さねばなりません。

一家が向かったのは、東京・麻布。

震災前は、田畑だった土地に、長屋が立ち並び始めていました。

兵七が、この地を選んだ理由は、震災で焼けて、うちが無くなり、大工さんが集まったような感じでした。

震災後、隣にあった陸軍歩兵第三連隊の兵舎のために、全国から大工が集まっていました。

そして上京して5年後の昭和7年、子どもが4人に増え、手狭になったため、近所に2階建ての家を借りました。

デヴィ夫人の異母姉妹の次女良子さんによると、1階は根本家の家族が暮らし、2階は間貸しし、家賃収入を得ることにしました。

そんなある日、足の不自由な女の人が、2階に住みたいとやってきました。

当時40歳の千葉出身の女性、笠原まさ。

のちにデヴィ夫人の母となる女性です。

まさは、数々の不運に見舞われながら、この家にたどり着きました。

ファミリーヒストリー デヴィ夫人の先祖ルーツは?母方

千葉県房総半島に位置する、睦沢。

笠原家の本家には、まさの甥の妻にあたる笠原百合子さん(90)がご存命です。

農家ですが、座敷が18畳

笠原家は、今でも田畑や山など1万坪以上の土地を持ちます。

デヴィ夫人の祖父、笠原房治は、農家のまとめ役でもありました。

睦沢町立歴史民俗資料館に、明治22年の土睦村吏員名簿に、笠原房治の名前があります。

明治29年、村議会議員を勤める房治の長女として生まれたのがデヴィ夫人の母、まさでした。

ところが10歳のとき、まさは柿木に上り、柿をとろうとして、踏み外してしまいます。

それで、千葉医大で手術をしましたが、その当時、家が貧乏になるほど、手術にお金がかかりました。

手術は成功したモノの、右足に大きな障害が残ります。

足が悪く、尋常高等小学校を辞めざるを得ませんでした。

その後、裁縫などの家事を手伝って、ひっそり暮らしました。

ところが、まさは成長すると美人さんに成長して、19歳のころ、ある男性との間に女の子を出産します。(大正4年、1915年)

しかし、1か月後、その子は亡くなり、その男性とも別れます。

30歳のとき、別の男性と暮らし始め、出産しますが、わずか2か月で亡くなります。

この男性とも、その後、別れてしまいます。

その後、まさは一人で暮らし、裁縫で生計を立てます。

そして40歳のとき、仕事を求めてやって来たのが、東京の麻布でした。

六本木の大通り沿いにあったチャイナドレス専門店で、仕事を見つけたのです。

足が不自由だったまさは、職場の近くで部屋を探します。

しかし、何か事情をかかえていると思われ、家を貸してくれるところはありません。

ようやく見つけたのが、1軒の家。

兵七の家でした。

ふだんから、困っている人がいると、放っておけない兵七は、すぐに貸してくれました。

まさが暮らし始めて、半年ほどたったころ、根本家は、悲しみに包まれます。

兵七の妻が、産後の日達が悪く亡くなってしまいます。

残されたのは、兵七と5人の子ども。

一番下は、まだ1歳でした。

まさは、根本家の家事や育児を手伝うようになります。

はるが亡くなって3年後、親戚から、まささんと一緒になったらどうだと進められます。

昭和15年(1940年)兵七とまさは結婚しますが、ともに45歳でした。

まもなく、根本家の7番目の子としてデヴィ夫人が生まれます。

名前は、七保子と名づけられます。

翌年、8番目の子、八曾男(やそお)が産まれます。

まもなく太平洋戦争が勃発します。

食料が配給制になり、食べ物の確保が難しくなります。

足の不自由な母のまさは、千葉の実家へ行き、食べ物を分けてもらいます。

連日のように空襲警報があると、親戚のいる福島県の浪江に疎開しますが、ここでも空襲にあいます。

足の不自由なまさが、幼い二人の子を連れて逃げるのは、困難なことでした。

なんとか子どもだけでもと思い、土下座して助けてもらえるように頼んだそうです。

それから1週間後、終戦になります。

父の兵七は、戦時中、疎開せずに、地元の警防団に入り、消火活動などをしていました。

警防団の仲間たちと飲んだお酒に、闇で出回っていたメチルアルコールがあり、そのため兵七の視力は、徐々に落ち、働けなくなってしまいます。

それで母のまさが、家計をささえるために、マッチのラベル貼りや、縫製の仕事など、いくつもの内職を掛け持ちします。

七保子が、小学校4年生の時、家に帰ると同級生のお母さんが家にいて、母は、月謝を借りていたのです。

七保子は、母の負担を減らそうと、林間や臨海学校の参加はしませんが、けして暗い子ではありませんでした。

中学生になると、その美貌が注目されるようになります。

そして進路の選択を迫られると、迷うことなく定時制の高校を選び、母の負担を助け、一つ年下の弟を大学に行かせようと考えました。

中央区京橋にあった千代田生命に就職し事務の仕事に就きます。

その傍ら、昼休みや休日は、喫茶店でアルバイトをします。

さらに稼ぐため、芸能事務所に所属し映画やテレビに、エキストラとして就職します。

就職して1年、父兵七が59歳で亡くなります。

七保子は、もっと働いて母に楽をさせてあげようと、会社を辞め、赤坂にあったコパカバーナのホステスになります。

それまでの10倍以上の給料をもらえることになります。

財界や政界の大物が多数訪れる場所です。

七保子は、その美貌と立ち振る舞いで、すぐに評判になります。

外国人のお客も多かったので英語やダンスも覚えます。

弟の八曾男(やそお)を早稲田大学に入れることもできました。

ある日、帝国ホテルでコーヒーを飲んでいると「ある方が、あなたとコーヒーを飲みたいと言っています」

部屋に招かれると、そこにいたのはインドネシアのスカルノ大統領でした。

第二次世界大戦後、インドネシアを独立に導き、建国の父と呼ばれる英雄でした。

当時、戦後賠償について話し合うために、たびたび日本を訪れていました。

大の親日家としても知られています。

出会いから2か月後、スカルノ大統領本人から手紙が来ます。

「ぜひ、インドネシアに来てほしい」

昭和34年9月、19歳の七保子は、インドネシアに渡ることにします。

実は、スカルノ大統領以前にも外国人の富豪2人から求婚されていて、3カラット半のダイヤをもらったのだとか。

インドネシアの渡航に際して、七保子を手助けしたのが、現在でもジャカルタに暮らす桐島正也さん(86)です。

当時、インドネシアと取引していた商社マンで、スカルノ大統領と親しくしていました。

なんのためにパスポートをとるかということで、桐島さんの身体が悪いから、その看護婦として申請をして取得します。

当時、日本人の女の子が、官邸でうろつくわけいにもいかないので、表向き、桐島さんの奥さんということにしていたそうです。

七保子は、将来弟の八曾男(やそお)をアメリカの大学に行かせようと、お金を貯めていました。

3年後、昭和37年2月4日、母のまさが脳出血で亡くなります。享年65歳でした。

まさが亡くなって2日後に、弟の八曾男(やそお)が自ら命を絶ってしまうのです。

その理由については、はっきりしたことはわかりません。

昭和37年、七保子は、スカルノ大統領の第三夫人として、正式に結婚をします。

まもなくデヴィ夫人は、宮殿を与えられますが、その名前に弟の八曾男(やそお)の名前をつけます。

昭和40年(1965年9月30日)、状況が一変します。

デヴィ夫人は、スカルノ大統領と宮殿で過ごしていました。

翌朝、大統領を官邸に送り出すと、兵士が訪れ「昨夜、反乱がおこった」と告げられます。

スカルノに不満を持った軍人6人が、将軍を殺め、のちに9月30日事件と言われるクーデターがおこりました。

スハルト将軍によって、すぐ鎮圧されましたが、スハルトが権力を握ろうと、スカルノ大統領の支持者を次々とお縄にします。

スカルノ大統領の退陣を求めるデモが強まり、デヴィ夫人へ日本に帰れという声も強まり、軟禁状態が半年ほど続きます。

昭和41年3月20日、デヴィ夫人は、スカルノ大統領との関係を改善しようと、スハルト将軍とジャカルタのゴルフ場で会います。

スハルト将軍に、一緒にプレーをしようと誘いました。

そこでデヴィ夫人は、「スカルノ大統領を支えてくれませんか?」と頼みます。

この大胆な行動は、日本でも報じられます。

スカルノ大統領の娘の一人の話によると、1番目と2番目の夫人は遠慮していましたが、デヴィ夫人は、気が強く勇気があったので、遠慮なく話したそうです。

しかし、スハルト将軍は耳を貸さず、スカルノ大統領は、間もなくして幽閉されます。

そのころ、デヴィ夫人は、身ごもっていましたが、デモのあるインドネシアではなく、国から離れるように進められ、昭和42年日本へ戻り、長女のカリナを出産します。

ところが連日、マスコミに追われることになり、半年後、パリで生活をするようになります。

昭和45年、スカルノの危篤の知らせが入りますが、デヴィ夫人は、インドネシアの入国を断れれていました。

それでも強引に、デヴィ夫人は、ジャカルタの航空にかけつけると、スカルノの第一夫人の娘ラハマワティさんは迎えに行きました。

そのおかげで、スカルノとの再会を果たすことができると、翌日69歳で亡くなります。

デヴィ夫人は、この時30歳です。

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