こんにちは。
うらりんです。
浅田美代子さんと言うとTBSドラマの「時間ですよ」で「お手伝いのみよちゃん」としてデビューをして、庶民的なイメージかもしれないけれど、実はお嬢様育ちで、若い頃からシャネルを着たりしていたんですよね。
「サワコの朝」(2017年7月22日放送)より、まとめました。
浅田美代子の現在の髪型
浅田美代子さんの髪型ですが、広尾駅から徒歩10分ほどの場所にある「六本木美容室」に35年ほど前から通っています。
歌手の吉田拓郎の“もじゃもじゃヘア”を考案したのは、オーナーの小松比奈恵さんです。
“家族のような優しさと執事のような誠実さ”をモットーに、カラーとパーマを同時にしないというのもそのひとつです。
スタイルはなるべくお客の要望に沿いますが、その人の髪の毛や地肌にダメージを与えるようなことは、リクエストがあってもお断りすることもあります。
浅田美代子さんの髪型は、昔から軽いカールがかかっていますね。
遊び心があって華やかに見えます。
浅田美代子プロフィール若い頃の画像
生年月日:1956年(昭和31年)2月15日
出身地:東京都港区
実家は、自動車修理工場を東京都港区麻布と神奈川県横浜市港北区綱島で経営。
出身学校:東京女学館高等学校
学校まで歩いて行ける距離だったので、定期券が憧れでバスに乗って渋谷へ行ったりすると先生に見つかって親がよびだされていました^^;
例えば、「何とかの本を買うために渋谷の○○書店へ寄らさせていただきます」と親が書いて、ハンコを押していたら、良いの。
そうじゃないとダメ。
東京女学館2年在学中の1972年(昭和47年)夏、街頭でスカウトされます。
当初、両親は芸能界入りに反対していましたが、ドラマ「時間ですよ」(1973年)の新人オーディションで、約25,000名の中から選ばれ「お手伝いのミヨちゃん」としてデビューします。
オーディションでは、ちょっとしたセリフを言わされたり、ギターを持って歌ったりしました。
ギターはやったことがないので、一番簡単なコードの「若者たち」をやりました。
オーディションに受かると、次の日、新聞に掲載されてしまい、学校が退学になってしまいます。
それはイヤなので、受かったその足で、学校へ退学届けを出しに行きました。
一応、「高校卒業してからじゃないとダメなの?」と、止められました。
「うわぁ~学校好きだしどうしよう」と思ったけれど、3日後くらいに期末テストだから、勉強しないし、もういいやと思った。
これで芸能界入りを決め、学校を中退する。
ドラマ「時間ですよ」では、堺正章さん、樹木希林さんと3人で「トリオ・ザ・銭湯」として3人のシーンが多いのです。
浅田さんは、新人で、お手伝いさんなので、芝居の稽古をやると言って、ずーっとぞうきんがけをやらされたそうです。
その時は、何をどこでセリフを言うとか、そういうのは、その時ありませんでした。
収録が始まって、お手伝いさん役をやることになりますが、唐草模様の風呂敷を下げて、松の湯と言う設定でしたが、松の湯を見た時に、「ここが、これから私が働く所なんだ。やっとたどり着けた」とか、不安と安堵と、色んな気持ちが混ざった「松の湯」と言え!って、久世さんに言われますが、全然わからなくてNGを30回以上出したそうです。
泣かないけれど、何が何だかわからなくて、
森光子さんや樹木希林さんに「大丈夫、大丈夫」と言われ、やったそうです。
久世さんが一番怖くて、アルミの灰皿とか飛んできて、ぶつかったことがあるそうです。
ひっぱたかれたりもしたそうですが、漫画で叩かれると星が出たりしますけど、ほんとに星が出たそうです。
すごいおこられたけど、普段は久世さん、樹木希林さんの3人でお昼ご飯を食べに行ったりして、真剣に育てようと思ってくれていたのは、わかったそうです。
「こういう気持ちなんだから、こういう風にしなさい」とか、丁寧に教えてくれたりとか、台本に「泣く美代子」と書いてあっても、「泣く」と言う芝居をするから、「涙なんて出なくていんだから。涙が出なくても悲しい気持ちは伝わるから」とか。
1974年「寺内貫太郎一家」で共演した樹木希林さんや演出家の久世光彦さんから学んだ演劇論は、今でも宝物になったそうです。
デビュー曲の「赤い風船」は、1年で50万枚近くを売り上げオリコンの年間セールス10位の大ヒット(この年の新人歌手のシングルでは最大のヒット)となり、1973年の第15回日本レコード大賞で新人賞を受賞します。
ドラマをやりながら、歌番組を出ていました。
「ワンハードから入って」と言われ、ワンパートと言うのは、1番を歌って、そのあと、サビから入るのがワンハード。
普通は2コーラスです。
2番を歌ったら、全然伴奏と違って、歌が下手と・・・
ドラマに戻ってくると、失敗しない日は、「今日は、美代ちゃん、歌うまかったよ~」と、みんなドラマの出演している人たちが歌番組を見ていてくれて、励ましてくれました。
1975年(昭和50年)「なつかしき海の歌」(TBS)での共演の頃からフォークシンガーの吉田拓郎との噂が流れ、樹木希林さんと内田裕也さんが吉田拓郎さんのところへ「どういうつもりだ!」と殴り込みに!
吉田さんは「ちゃんとまじめなおつきあいです」と答え、納得して帰ったそうです。
詳しい時期は、わかりませんが、1975年12月に、吉田拓郎さんは、前妻の方とお別れになります。
1977年(昭和52年)7月に31歳の吉田拓郎と21歳で結婚しますが、お掃除が苦手で、お母さんがやってくれとか。
お母さんがやってくると「浅田家政婦協会から、やってまいりました」
1983年(昭和58年)に協議離婚が成立し、母と2人暮らしを始めますが、急性リンパ性白血病で68歳のとき、お亡くなりになられます。
浅田美代子の現在とファッション?
樹木希林さんにすごく言われるのは、モノをちゃんと整理しろと。
病気になったり、事故に合ったりしたとき、迷惑だから。
だから洋服も買わなくていいから。
これで過ごせるでしょ。
浅田さんは、一応仕事で、こういう感じでやりたいから買うんですよと言うと、
「そんなの、みんな思ってないわよ」(笑)
まとめ
浅田さんの話を聞いていると、子供のころ見た「時間ですよ」とか「寺内貫太郎」の事とか、時代の空気を思い出したりして、すごく懐かしかったです。
今だったら、パワハラオンパレードなんだろうけれど、見ていて一緒に笑ってしまうって、のんびりした時代だと思います。
育てようなんて発想、今ないですよね。
昔「オーラの泉」で、浅田美代子さんの前世は、江戸時代の大奥にいたと言われて、浅田さんが「そうだと思う」と言ったのが印象に残っています。
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