女優の乙羽信子さんというと、丸顔でえくぼがかわいらしい方でしたが、亡くなられて24年にもなるのですね!
そんな乙羽信子さんについてまとめました。
乙羽信子の死因?
1994年(平成6年)12月22日午前、肝臓癌による肝硬変でお亡くなりになられます。享年70
お墓は京都市にありますが、遺骨の半分は代表作「裸の島」を撮影した広島県三原市の宿祢島に散骨されました。
乙羽信子さんの死後、新藤兼人監督は、1996年(平成8年)に第14回川喜多賞、1997年(平成9年)に文化功労者、2002年(平成14年)に文化勲章を授与などされています。
しかも、新藤兼人監督は、その後、100歳まで長生きをされ、2012年(平成24年)5月29日、老衰のため東京都港区の自宅でお亡くなりになっています。
乙羽信子の身長は?
詳しい数字はわかりませんが、田中裕子さんと一緒に撮った写真を見ると、田中裕子さんは身長が160cmで、それよりも低いことが分かります。
150cmくらいでしょうか。
乙羽信子の夫や若い頃写真!映画女優!画像
26歳で、宝塚を退団すると、大映に入社します。大映は、宝塚時代から人気のあったえくぼに「百萬弗のゑくぼ」というキャッチフレーズをつけて、純情型のスターとして売り出します。
昭和の大女優、乙羽信子の宝塚時代の写真です。80年以上前の写真ですが、美人ですね。 pic.twitter.com/GCWfxGuel1
— pearbook (@pearbook_jp) April 15, 2019
デビュー作は同年で、のちに夫となる新藤兼人脚本、木村恵吾監督の「處女峰」で、上原謙と共演します。
乙羽信子。
1枚目は、大映からのデビュー作「処女峰」(1950)。右の相手役の俳優は、上原謙。2枚目は、昭和26(1951)年の「愛妻物語」(大映)。右の相手役の俳優は、宇野重吉。3枚目は、モスクワ映画祭でグランプリを受賞した「裸の島」。 pic.twitter.com/HcSPGT308S— しいたけ (@zidaiokure_21th) 2018年3月21日
その後、何作かに出演すると、1951年(昭和26年)の新藤兼人の第1回監督作品「愛妻物語」で、夫を陰で支える妻を演じ、映画界でもスターの地位を手に入れることになります。
#映画録33 180512#川崎市市民ミュージアム#宇野重吉特集 : 没後30周年 1/10#愛妻物語(1951, モノクロ, 監督: 新藤兼人, 出演: #乙羽信子 #宇野重吉 他)
駆け出しの脚本家と、それを支える新妻の、愛と悲しみの物語。新藤は初監督、乙羽は初主演の映画である。若い乙羽が美しい。
★★☆☆ pic.twitter.com/IrzicxJVn1— さびたん33 (@jawakahiko) 2018年5月12日
実は、この「愛妻物語」は、新藤兼人監督自身がモデルです。
乙羽信子さんが、新藤兼人にほれ込むのですが、当時、妻子持ちの不倫の関係から始まります。
監督が離婚後、一緒になりますが、乙羽信子さんは、先妻さんの子供から慕われていたそうです。
新藤兼人監督・脚本1979年の「絞殺」を。西村晃&乙羽信子。実際に起きた開成高校生殺人事件が基。『日常に潜む、異常性』の表現が新藤監督ならではのリアリズムだなと。正気と狂気の狭間。人間の愚かさの縮図がここに在る。エゴと愛憎の果て。壮絶な家族崩壊の光景だ。乙羽信子が絶品。必見。 pic.twitter.com/TdpSCJKU6K
— shinichi A BE-AR (@purissima_bear) 2019年5月5日
乙羽信子さんの遺作「午後の遺言状」では、最後の撮影場面では体調にあわせてシナリオを変更したそうです。
1978年(昭和53年)、新藤兼人監督と54歳で結婚。
一時期、新宿二丁目でバーでママをされていたことがあるとか意外な感じです。
乙羽信子の息子?
新藤兼人監督との間にお子さんはいますせんが、新藤兼人監督の先妻の息子で映画プロデューサーで近代映画協会社長の新藤次郎がいます。
乙羽信子おしん役プロフィール
乙羽 信子(おとわ のぶこ)
本名:新藤信子(旧姓・加治)
生年月日:1924年(大正13年)10月1日~1994年(平成6年)12月22日
愛称は「オカジ」
出身地:鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)西倉吉町
父の家に引き取られ、大阪で育ちますが、饅頭屋の養女となり、神戸市に移ります。
小学校のときから日本舞踊を習い、また、養父の姉に連れられて宝塚歌劇を見に行くうち、憧れるようになります。
1937年(昭和12年)、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)に宝塚歌劇団27期生として入学します。同期生に越路吹雪、
月丘夢路、東郷晴子、大路三千緒、浦島千歌子、瑠璃豊美らがいます。
宝塚入団時の成績は93人中49位。
1939年(昭和14年)の公演「宝塚花物語」で同期生達と共に初舞台を踏みます。
戦後、再開された公演でトップ娘役(主に雪組公演出演)を務めます。淡島千景と人気を分かち、戦後の宝塚歌劇団第一期黄金時代を支えます。
1950年(昭和25年)、娘役に限界を感じ始め、松竹入りした淡島に倣うように「雨月物語/キュウバ/人魚姫」を最後に宝塚歌劇団を退団します。
あのNHKドラマ「おしん」で、主人公おしんの中年期以降の役を演じていらっしゃいましたが、当時、乙羽信子さんは59歳でした。
ちなみに、ドラマ「おしん」が放映される3年前の1980年に、宝塚の同期の越路吹雪さんが56歳でお亡くなりになられています。
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