朝ドラ「マー姉ちゃん」でお隣さんの「一平老人」を演じるのは、昭和期を代表するコメディアンの益田喜頓(ますだ きいとん)さんです。
戦前の浅草は娯楽のメッカとして連日にぎわっていましたが、益田喜頓さんは、ジャズやシャンソン、浪曲などを取り入れた歌謡漫談で人気でした。
益田喜頓 マー姉ちゃんの牛尾一平役?
ひと際存在感を放つお隣さんですが、役名は「牛尾一平」です。
「牛尾一平」には、三国一朗さん演じる「軍平」という息子さんがいます。
益田喜頓 息子は?
昭和13年11月、花月劇場のプリマドンナでジャズ・シンガーの“ミス花月”のツヤ子さんと結婚します。
おそらく、おキレイな方なのでしょうね。
お子さんについては不明。
益田喜頓「娘よ」がかかってますが、風貌が似てる露木茂は氏の息子だと勘違いされたこともあったんでしたっけ??#ラジオ深夜便 pic.twitter.com/g6lvBTWKLz
— 地獄サンダー (@LakeofIllusions) July 7, 2021
露木茂さんと似ていると思う。
益田喜頓 あきれたぼういず!
高い音楽性と評されていますが、音楽のみならず、ファッションも相当のこだわりを持っていました。
当時、俳優は遊ぶときでも身なりをきちんとしないとダメだと言われていたそうで、真夏でもハイカラーにネクタイをしていました。
その頃、ダンディーと言われた人は、ほとんどがイギリス風のかっこうをしていて、イギリス製の生地で、背広やワイシャツ、下着まで!オーダーで仕立てたそうですが、人気でお金があったわけではありません。
月給40円の時代に、仕立て代が35~40円!
今でいう分割払いをしていたのですが、昔は取り立てが厳しくなかったのだそう。
欠かせないのが背広でも和服でも帽子(シャポー)ですが、これも国産のものだと、雨にあたると縁が崩れてしまうのでダメなのです。
お金にゆとりがあると、ロンジン、オメガ、ローレックスと時計にこだわりますが、さすがに車は喜劇人には買えず、ディックミネさんのような歌手でないと買えませんでした。
ともかくかっこうもイギリス風ならマナーも英国式で、益田喜頓さんは、英国スタイルを通しています。
昭和14年(1939年)1月、高い音楽性で世界中の音楽を消化してショーにし、今も演芸の歴史にその名を残す「あきれたぼういず」(川田義雄、坊屋三郎、芝利英、益田喜頓)のレコード広告です。
浅草花月での吉本ショウのライブ録音のようですね。 pic.twitter.com/reeEIWg145— 戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) March 27, 2021
のどかな感じです。
#山茶花究生誕祭
ということで、1947年・瀧澤英輔監督『おスミの持参金』から、あきれたぼういず(山茶花究・坊屋三郎・益田喜頓)の演奏場面。
山茶花究は当時33歳、進藤英太郎や河津清三郎も映ってます。 pic.twitter.com/Xt9V9cDXcY— 大久保マコト (@makoto_ookubo) April 1, 2018
益田喜頓プロフィール
本名:木村 一
1909年(明治42年)9月11日、北海道庁函館区青柳町に生れる。
裕福な家で育つが、幼少時父の事業が失敗し、父親が蒸発。
貧しい生活を送ることになりますが、その頃から、バスター・キートンらが主役を演じるアメリカの短編喜劇の無声映画が好きになります。
1923年(大正12年)、北海道庁立函館商業学校入学する。
1930年(昭和5年)、小樽の貿易会社に入社し、同系列資本の札幌の「赤い風車レビュー団」を手伝っていましたが、翌年解散したので、上京し、吉本興業に入社し、「花月劇場」でショーに出演します。
1936年(昭和11年)、川田義雄、芝利英、坊屋三郎と「あきれたぼういず」を結成。
1951年に解散。その後、映画を中心に活躍します。
1990年(平成2年)には半世紀以上住んでいた台東区西浅草を離れ、函館へ帰郷します。
1993年(平成5年)12月1日、大腸癌のため、函館の病院で84歳でお亡くなりになられます。
まとめ
人を楽しませるだけでなく、英国式にこだわった益田喜頓さんのダンディーなお姿が、子供心にも焼きついた理由がわかりました。
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